甲府の始まり~武田氏三代~
中世の甲斐の国の政治的・経済的な中心地は現在の笛吹市石和一帯で、守護の武田氏は三代にわたり石和に近接した川田(甲府市川田町)に館を構えて領国経営を行っていました。
群雄割拠の戦国時代に名将として全国に名を馳せた武田信玄の父である、武田信虎は、永正16(1519)年に躑躅が崎の地へ居館を移し(現:武田神社一帯)、家臣をその周辺に集住させるとともに、商職人町の設定や寺社の創建、市場の開設などを進め、大規模な城下町の整備に着手しました。これにより甲斐の府中「甲府」が誕生しました。
大永元(1521)年には信虎の嫡男として晴信(後の信玄)が誕生し、天文10(1541)年に甲斐の守護になると、釜無川に信玄堤を築き、新田や金山の開発を進め、交通網を整えるなど民政に事績を残すとともに、領国の拡大を図り、戦国武将としてのゆるぎない地盤を築きました。
信玄の第4子である勝頼は、信玄の死後、武田家を継ぎました。信玄さえなしえなかった高天神城を攻略するなどの戦果を挙げましたが、織田・徳川連合軍に長篠の戦で敗戦したことが転機となり、武田家は滅亡しました。
甲府城と城下町の発展
甲府城は豊臣秀吉配下の浅野長政・幸長父子などにより、今からおよそ400年前に一条小山に築城され、その周辺に近世の甲府城下町が建設されました。
徳川綱吉側近の柳沢吉保が城主になると、甲府城と城下町の再整備が積極的に進められました。柳沢氏の時代は、当時、甲府城下町を訪れた荻生徂徠が「人家は繁盛し、市街がよく整って商店に多くの品物が並び、人々の姿ふるまいもほとんど江戸と異なるところがない」と記すほど、江戸時代を通じて甲府城下町が最も繁栄していました。
その後、享保9(1724)年の柳沢氏の大和郡山(奈良県)への所領替えにより、甲斐は幕府の直轄地となり甲府城には勤番支配が置かれることとなります。
これを機に、勤番士などから江戸の文化がもたらされ、特に亀屋座での歌舞伎興行は「甲府で流行った芝居は、江戸でも流行る」といわれるほどでした。
甲府市制施行
太宰治は、その著書『新樹の言葉』に「シルクハットを倒(さか)さまにして、その帽子の底に、小さい小さい旗を立てた、それが甲府だと思えば、間違いない。きれいに文化の、しみとおっているまちである」と記していて、豊かな自然の中に、西洋風のしゃれた文化が根付いていたことをうかがうことができます。
太平洋戦争の終戦を迎える昭和20(1945)年7月には、甲府空襲により当時の市域の74%が焦土と化し、甲府の古き良き時代の面影や多くの人命が奪われることとなりました。しかし、終戦直後には戦災復興局が設置され、市民一丸となって、槌音高く郷土の復興に立ち上がり、平和通りや駅前広場の建設など、近代都市としての基盤整備が続けられました。
高度経済成長期の昭和46(1971)年には、中央線の複線化や甲府バイパスの開通、昭和57(1982)年には、中央自動車道の全線開通など、モータリゼーション社会の到来に対応した国家プロジェクトとしての交通網整備が急速に進められる中、甲府市は先端技術産業が立地する工業団地建設をはじめとする産業経済の活性化などにも積極的に取り組み、地方の中核都市として発展を遂げ、平成元(1989)年には市制施行100周年を迎えました。
また、平成12(2000)年には、地方分権の流れに対応し、自主自立した行政運営とより主体的なまちづくりを推進するため、特例市に移行し、平成18(2006)年には、中道町と上九一色村北部地域と合併するなど、時代の潮流や地方自治体を取り巻く社会環境の変化に対応した行政運営に努めてきたところです。
そして、中核市へ移行した平成31・令和元(2019)年に記念すべき開府500年という歴史的な節目の年を迎えました。